創造と共感の経済学-モノより思い出?

Saturday, February 24, 2007

創造性を発揮する際に有効な相互作用のフォーミュラとは?

岩渕潤子→金正勲さま

■水の迷宮で体感したこと
イタリアのヴェネト州に出張して、観光客でごったがえすカルネヴァーレ期間中のヴェネツィアで、まさに「相互作用の無い多様性」と「相互作用のある多様性」について考えさせられる機会がありました。その比較というよりも、生産的な創造性を誘導するための「相互作用を起こすためのフォーミュラ」とでもいいましょうか。相互作用の確率と誘導する方向の精度を高める上での一つの典型的な事例だと思うのですが、そのビジネス・モデル(彼らがそれをビジネスと考えているかどうかはともかく…)は当事者たちからIncentive Managementと呼ばれていました。通常、「インセンティヴ・マネージメント」という言葉の意味は、リテール・セールスのコミッション配分の適切な管理を指すはずで、しばしばネット上で目にするのはその自動管理システム・ソフトウェアのことでしょう。しかし、私がヴェネツィアで目にし、体験した「インセンティヴ・マネージメント」とは、まったく異質な世界でした。

これから話すことは若干、奇異に聞こえるかも知れませんが、私がその「ビジネス・モデル」を目の当たりにすることになったのは、あるフランス人のメディア系企業オーナー夫妻が主催する仮面舞踏会でのことでした。「舞踏会」というだけでも時代錯誤的ですが、「仮面舞踏会」というのは、カルネヴァーレ(謝肉祭)を観光資源として盛大に祝うヴェネツィアならではのことで、2月の期間中、ラグーナの運河沿いに点在する大邸宅では夜ごとに華やかな夜会が開かれているのです。個人の邸宅なので看板が出ているわけでもなく、入り口を探すのも一苦労ですが、招待状に書かれた住所を頼りに会場へとたどり着き、夜9時過ぎからゲスト全員が揃うのを待ってカクテルが供されます。そして、ようやく上階に上がって、10時頃から大広間での着席晩餐会が始まるわけです。だいたいどこのパーティーでも十名が一つのテーブルに別れて着席しますが、同じ国籍の人だけに偏らないように、そこは主催者が配慮して、多国籍な顔ぶれとなっています。150名ほどのその夜のゲストの中で、日本人は私と同行者だけでしたが、我々のテーブルは他にイギリス人の母娘、フランス人夫婦、アルゼンチンから来たカップル、それにイタリア人のゲイ・カップルといった顔ぶれでした。私のすぐ後ろのテーブルにはアメリカ人のカップル、ロシア人のカップルなどがいて、どこもみな初対面なはずですが、自己紹介を交えて、すぐに活発な会話がスタートしていました。そのパーティーのテーブルに着いているということじたいが、その人たちが旅慣れていて、世界各地を訪れた経験があり、複数言語を話し、さまざまな国の文化や人種、恋愛観や道徳についても偏見を持たず、何らかのプロフェッショナルとしての職業を持つ人たちであるという担保になるわけで、皆がある種の安心感を持って会話を行うことができるのです。基本的な価値観の共有ができていることがわかっており、また、同じ家のゲストという演出もあることから、初めて出会った人どうしであるにもかかわらず、お互い、かなり単刀直入な会話がしやすい雰囲気があるわけですね。ここで私が目にしたのは、正に創造性を発揮するにおいて、極めて生産性が高く、無駄のない、相互作用の強い多様性、しかも、それが意図的にデザインされた状況だったわけです。この「意図的なデザイン」を、その夜の舞踏会の主催者夫妻は「インセンティヴ・マネージメント」と呼んでいたのです。私が参加したイヴェントは、彼らがヴェネツィア市民として、街の魅力を最大限に国際的にアピールすることを目的として行われたものですが、場合によっては新しいビジネスを始めるために投資家たちの出資を募る目的、あるいは、業界標準を決定するための合意形成を行うための場も、こうしたところで、入念な演出の上で儲けられているようです。館の主人である夫妻がどんなクライアントを抱えているのか、私なりに情報収集をしてみましたが、スイスの金融機関、イギリスの大手メディア・グループ、ドイツの有名自動車メーカー、アメリカの製薬会社など・・・なるほどと考えさせられるリストになっていました。日本企業は一つも入っていません。

■情報としてのヒトの「検索」と「フィルタリング」
私はこの「夜会」に参加してみて、実にいろいろなことを考えさせられました。一つは、近頃ではもっぱらネット上でのみ活発に行われていると思い込んでいたソーシャル・ネットワーキングが国境を越えて、かなり高度なレヴェルにおいてリアル・ライフで行われているという事実の再認識。その高度なネットワークに入り込むことがリアル・ライフで結実されるための最初の入り口・情報は、もしかしたらネット上にあるのかも知れないこと。そして、目的と様々な条件によってフィルターされ、一ケ所に集められた招待客らは、主催者にとって、あるいは、招待客どうしにとっても、貴重な情報そのものであるということです。すでに目的やフィルターによって評価され、選択された招待客のみがそこに集められているので、彼らは相互にとって、極めて価値の高い情報媒体といって良いのではないでしょうか。そこで新しいビジネスや投資の可能性、コレクターにとって不可欠な情報、国際情勢に関する意見交換、より豊かな生活を送るためのパートナー探しに至るまで、さらに絞り込んだ情報のやり取りが行われるのです。こうしたアクティヴィティのプロセスで、唯一、ネット上のソーシャル・ネットワーキングとの違いは、さまざまな経験値の情報が一般大衆に公開されることは決してなく、リアル・ライフでその場所にたどり着いた者たちの間のみで共有、再配分されるだけであるということでしょうか。ただし、この閉じられたサークルの中での情報の循環、評価、再配信は極めて活発で、多くの場合、何らかの創造的な活動に結びついていっているものと思われます。

しばしば実業の世界でデファクト・スタンダードの形成に失敗してきた日本企業の敗因を考える時、経営者たちがこうした合意形成のためのベースとなるネットワークの中にまったく入っていないということを考えさせられます。世界的に見た際の標準化の勝ち負けというのは、おそらくリーダーの一人勝ちパターンでは駄目で、同じテーブルに着いている人たちすべての面目が立つよう、どれだけの配慮を示すことができるかなのかも知れません。日本の国内市場規模は、ヨーロッパの国々、それぞれと比較すると確かに大きいかも知れませんが、アメリカのように英語圏すべてに影響力を持てるわけではなく、だとしたら、ヨーロッパの国々がしているように、同じテーブルに着いた人たちと根気良く会話し、何が狙いなのかを探りながら、みんながハッピーになる道を見つけていくのが無難でしょう。アメリカのように、自分だけが一人勝ちしようとするパターンは日本には無理があるように思えてなりません。そのために「社交」、もしくは、このような意味での「インセンティヴ・マネージメント」は極めて重要な切り札のような気がします。

■Second LifeはSecond Class?
さて、Second Lifeですね・・・私も大きな感心を持って注目しています。ネット上の世界でのみ「所有」しているものや活動に対しても「所有権」が認められ、それに伴って課税されるというのは今までにないことで、一つの大きなパラダイム・シフトが起ころうとしているのかも知れません。しかし、仮想上の空間におけるアバターとしての自分の役割とリアル・ライフでの自分自身の立場が乖離してしまったような場合のことを考えると・・・正に映画のMatrixのような、現実の肉体は昏睡した状態でどこかにあって、仮想世界の自分だけがアクティヴに何かをしているといったことを想像して、ちょっと怖い気がします。また、リアル・ライフで活躍して成功を納めている人たちも引き続き存在しているわけなので、もしかすると、現実世界で成功できなかった人たちがお金をかけずに低エネルギーで生命を維持する方法を編み出し、どこかで生身の肉体は横たえて、もっぱら脳内とネット上のサイバー・ワールドでのみ活動するといった二極化が起こってしまうことも否定できなくはありません。新たな格差社会、もしくは階層社会とでもいうのか…その意味で、Second Lifeという名称そのものが非常に意味深というか、怖いもののような気がするのは私だけでしょうか。