創造と共感の経済学-モノより思い出?

Sunday, November 05, 2006

「オレ流」に見る日本的価値判断の危うさ

岩渕潤子→金正勲さま

■LEGOを買ってもらえない子供の場合
金さんのLEGOブロックのアナロジーには感心させられましたが、LEGOのように誰でも子供の頃に一度は手に触れた経験のあるものは、自分自身の幼少期にかんがみても、いろいろ考えさせられることが多いですね。私自身の場合、おそらく祖父母か、両親の友人の誰かからのプレゼントとしてLEGOの基本的なセットが我が家にあったように記憶しています。それで遊ぶことによって、また、箱に印刷された魅力的な写真を見ることによって、子供としては、より多くのLEGOパーツが欲しくなるわけです。より複雑で大きな構造物を作ろうとすれば、接続部分に使うパーツ各種や、セットには入っていない特別なパーツがないと、それ以上のことができないのがLEGOですから、当然私もクリスマスや誕生日の機会をとらえて、そうしたものを買って欲しいと親にねだった記憶があります。しかし、ここで興味深いのは、私の両親がガンとしてLEGOを買ってはくれなかったということです。今になってみるとよくわかるのですが、新しいパーツを買い続けないかぎり、新しいものを作ることができないオモチャは子供に相応しくないと両親は判断したようで、そのかわりに私に与えられたのは色とりどりのスティック状の粘度でした。これを適当な大きさに切って丸めたり、いろいろなカタチにして、要はパーツから自分で作ってみなさいというのが私の両親の答えでした。

幼稚園の頃に好きなだけLEGOを買い与えられ、それでいつも遊んでいたという体験をもとに建築家になったという知り合いもいますから、決してLEGOを否定するわけではありません。建築というのは、必ず発注者がいて、ある一定の基準に沿って大勢の人たちと協調的な作業のもとで行う創造行為ですから、小さい頃から一定の条件による規範の中で取捨選択を繰り返すという遊びは、実務的な建築家を育てる上では重要な経験だったのではないでしょうか。LEGO好きなオトナの中に、建築家や大企業で働くエンジニアなど、秩序を重視する仕事についている人が多いのは、なるほどと納得させられるものがありますね。一方、「パーツから自分で作ってみなさい」といって育てられた子は、大きさ、色、カタチ、いっさいの制約がないわけですから、文字どおりに「型にはまらない子供」に育っていきます。パーツから自分で作るとなると、基本的には互換性のないものを作ることになるので、えてして一人遊びが得意になり、自分の作ったものはオンリー・ワンですから、他者と比較のしようもなく、人と自分が違うことは当たり前だと思うようになるのではないでしょうか。そうやって育った子供・・・私の両親や、私自身もその一人であるという認識ですが・・・は、人と同じことをするのに飽き足らないオトナに育ち、世の中の流行とは異なる価値観を持ち続けることになるような気がします。

■「オレ流」とは一体、誰の価値観なのか
そんな私が最近、すごく気になっているのは、電車の吊り広告などで、やたらと「オレ流」という言葉が目につくことです。「恋愛オレ流」に始まって、「オレ的餃子のうまい店No.1」、「オレ流もつ鍋の世界」などといった表現が巷に溢れていることについて、私はかなりの違和感を覚えるのです。雑誌の特集の見出しが並ぶ電車の中の吊り広告で、これほどまでに「オレ流」という言葉が氾濫しているということは、少なくてもこの「オレ」は個人ではなく、かなりの分母による「集団的オレ」なのではないか・・・というのが私の予測です。こうした雑誌がターゲットとするのが、どういう教育を受けた集団であるのか厳密にはわかりかねますが、その訴求テーマから判断して、「若い男性」を読者に想定しているとすると、「ゆとり教育」、もしくは「個性重視」といわれる教育を受けて育ってきた人たちが対象と見て良いでしょう。彼らは「叱るより褒める教育」によって、一人、一人のユニークな個性を大事に伸ばす教育を施されてきたはずなので、「個性」を表す言葉に敏感に反応します。「いい大学に入って、大企業に就職するばかりが人生じゃない」と教えられ、スポーツ選手やお笑い芸人、アーティストなどへの憧れがことのほか強いのも、この世代の特徴でしょう。「個性的である」と言われたほうが、「勉強ができる」と言われるよりも嬉しい世代。しかし、ここで目を向けなければならないのは、誰もがスポーツ選手やお笑い芸人になれるわけではないという現実です。「いい大学に入って、大企業に就職するばかりが人生じゃない」といって、進学をやめて放浪したり、就職を放棄するのは誰にでも簡単にできます。しかし、その上で一人の人間として生きていくには人並み以上の才能、経験に裏打ちされた確固たる信念などが必要となるわけです。

いま、電車の中でよく目にする「オレ流」は、言葉としては「オレ独自の」という憧れを秘めたものかも知れませんが、実際には、今までと変わらない「みんなが行く人気No.1の餃子屋」の話であったり、ごく当たり前の「恋愛観」のことだったりするような気がしてなりません。あるいは、「みんなが考える」個性的なロック・アーティストのイメージに合致した「〜〜さんが語るところの恋愛観」を、畏敬の念をもって「〜〜さんのオレ流」と定義して、それを参考にするのかもしれません。いずれにしても、雑誌の編集者が今という時代を見据えて提案するところの「オレ的なもの」でしかないことは否定できないでしょう。

■ネット上の「ユーザー評価」と「オレ流」の関係を考察する
さぁ、ここで「ユーザーが生み出す評価情報とWeb2.0のゆくえ」の話に入ってくるわけですが、日本においてはいったいどれぐらいユーザー自身からの評価情報が他のユーザーの購買判断に影響を与えているのでしょうか? おそらく、病院の治療情報、中古車の売買情報、不動産取引にかかわる話、女性にとっての化粧品に関する情報共有など、かなりのお金を支払い、かつ、日常生活を送る上で避けられない物品の購入については、多くの人がインターネットによる情報検索を真剣に利用しているようです。

一方、Amazonのような「嗜好品」を扱うサイトの場合、これは日本に特徴的な傾向かも知れませんが、「評価情報」欄は、むしろ、評価する側の「楽しみ」として利用されることが多く、ほとんど読まれていなかったり、商品を購入する、しないといった意思決定の判断には利用されていないという傾向があるようです。書籍に関していえば、出版各社は、近年、ネットでの書籍紹介情報の充実に力を入れるようになりましたが、「売り上げのコアは書店への営業であり、朝日、読売、日経に紹介記事が掲載されることの影響がいまだに一番大きい」と言っています。また、ネット通販は、書店での取り扱いが少ない本を入手するには大変便利ですが、それだけに書店では売れていない本の売り上げ順位が上位にくるなど、市場全体の動きとはかなりのズレがあるようです。そんな中、新聞に掲載された書評と違う意見をもった人は、今までであれば紹介する機会がなかった自分の意見を書き込むことができるようになったわけで、論理的には、新聞に記事を発表するのと同じぐらい多くの人の目に触れる可能性があるわけですから、その達成感は大きいでしょう。そういう意味で、Amazonのユーザーによる書評という事例においては、「ユーザーによる評価情報」というより、むしろ、その場を「自己表現の媒体」として利用する、リピーターである数名の特定個人に占有されているケースが目立つ・・・というのが日本のWeb2.0の特徴かも知れません。

同じように、手軽に自分が「情報発信」しているような気になれるということでブログを始めた人の数も多いようですが、書くだけで自己完結してしまって、実はこれらのほとんどが第三者には読まれていない・・・要は、ブラックホールに向かって個人的な情報を垂れ流しにしているだけといった状況も多いようです。そういうことを積み重ねていっても、対話が生まれない以上、exchangeやinter-actionは起こりえず、はたして今後の日本社会がより創造的になっていくのかどうかについは、はなはだ心もとなく感じてしまいます。自分だけ「情報を発信したつもり」の状態は、まさに「オレ流」という、一人よがりで、あたかも相手が存在していないかのような響きを持つ言葉と直結しているようで、私はとても気になっているのです。誰にも相手にされなくても、「オレ流」なんだからいいさ・・・と、餃子も、モツ鍋も、恋愛も、すべてがブラックホールに吸い込まれてしまって良いものでしょうか? 人は、相手の反応を求めるものではないのでしょうか? 金さんはどうお考えになりますか?