創造と共感の経済学-モノより思い出?

Wednesday, October 18, 2006

「LEGOブロック」からみた創造性

金正勲→岩渕潤子様

■二つの創造性
日本画の専門家である村上さんが欧米の現代アート市場で活躍したということは大変興味深い事実ですね。私はこれには創造性の本質を考える上で重要なヒントが隠されていると思います。創造性には、無から有を生み出すいわゆる「ゼロからの創造性」と、既存のもの同士を創造的に組み合わせることで新しいものを生み出す「組み合わせによる創造性」の二種類があります。私はこれを説明する際、よくLEGOブロックのアナロジーを使いますが、つまり、LEGO自体を発明するのは前者のゼロからの創造性ですが、既存のLEGOブロックを創造的に組み合わせし、自分が描くイメージを形にすることを後者の組み合わせによる創造性と言えるでしょう。後者の創造性においては、全体のアーキテクチャーも重要ですが、誰も持っていない自分だけの秘密兵器となるLEGOブロックを持っていることは他者との差別化において非常に重要になります。村上さんの例で言えば、彼は欧米市場に今までなかった自分だけのLEGOブロック(=日本画又はその感覚)を持ち込み、それを自分の作品のコア要素として意識的に特徴付け、それまでのLEGOブロック(=欧米におけるアート)と見事に組み合わせたことによって成功を収めたのではないかと思います。

■芸術活動の目的とは
Amazonにおける村上さんの著書を巡っての賛否両論について、岩渕先生から興味深い分析をして頂きました。村上さんの活動に対する評価が分かれるのは、芸術活動とそれに付随する経済活動との関係性を、どう捉えるかによるところが大きいと思います。例えば、村上さんの作品を「経済的価値も高いが芸術的価値も高いもの」としてみるのか、それとも「経済的価値は高いが芸術的価値は低いもの」としてみるのか、というのは重要な基準軸の違いだと思います。つまり、ある芸術作品の経済的成功を芸術的成功として捉えるのか、それとも経済的成功・失敗とは関係なく、芸術的価値をだけを持って評価するのかという違い。そういう観点から言えば、村上さんを批判する方は二つのタイプがいて、一方は芸術的作品の経済的成功に対し一種のアレルギーを持っているタイプと、もう一方は自ら芸術的価値を判断する基準軸を持って、それに照らし合わせて村上さんの作品を評価するタイプの人がいる。

村上さんはどちらかといえば、「市場での成功≒芸術分野での成功」と考えるタイプで、市場での成功にかなりの焦点を当てながら、綿密に戦略を立てて実行に移すという、今までの日本のアートの世界から見れば異端児のようなもので、当然、風当たりも強いと思います。

■「コンテンツ政策」誕生の背景
文化政策で言えば、伝統的な文化政策の場合、経済的価値は低いが文化的価値は高い部門に補助金など支援を集中させてきたといえます。しかし、ここに来て文化政策と、(かなりの部分)重複する「コンテンツ政策」というのが登場した。その表現(=コンテンツ創造)活動がデジタル技術と結合することによって莫大な経済的価値を生み出すことが明らかになったことを受け、伝統的な文化政策を補完する形でコンテンツ政策が生まれてきたといえます。

管轄省庁でいえば、日本の場合、文化政策は文部科学省傘下の文化庁が中心的役割を担ってきたのに対し、コンテンツ政策の場合は経済産業省や総務省といった経済関連省庁が中心になっている。これは韓国などの諸外国にも見られる構図です。つまり、伝統的に文化政策関連省庁の管轄であった文化政策領域から、経済的な価値創出のポテンシャルが高いと思われる部門を切り出し「コンテンツ政策」という新しい名称を付けて振興政策を展開していく、というのが今のコンテンツ政策が生まれた背景であります。

そういう意味では、伝統的な文化政策が対象としていた、経済的価値は低いが芸術的価値は高いと思われる部門への支援から、芸術的価値は低いとしてもそれがもたらす経済的価値を生み出すポテンシャルが高いと判断される場合は、コンテンツ政策という名の下で積極的に支援策を講じていくという流れになっています。ただ、実際は近年のコンテンツ政策の大きな流れとしては、既存の文化政策を吸収する形で展開されていますことに注意したい。それはコンテンツ政策の政策目標に、文化の増進、富と雇用の創出による国家経済への貢献、ソフトパワーの増進、といった文化と経済領域を跨ぐ複数の政策目標が入り混じっているからでしょう。

■ユーザーが生み出す評価情報とWeb2.0の流行
Amazonの例でもう一つ興味深いのは、今までは新聞やテレビなどでプロによって一方向的に提供されてきた製品やサービスに対する「評価情報」が、今やユーザーによって生み出され、それが容易に検索可能になることで瞬時に流通・共有できるになったということです。これにはGoogleをはじめとする、いわゆるWeb2.0技術というのが重要な役割をするわけですが、岩渕先生はこの「Web2.0的な動き」について、どのような感想を持っていますか。

Tuesday, October 03, 2006

村上隆さんの智慧の源は「日本画」にアリ?

岩渕潤子→金正勲さま

■『芸術起業論』から考える「私たち自身」
村上隆さんの『芸術起業論』に関して、私が最も興味を惹かれたのは、内容そのものよりもアマゾンの読者書評による評価が賛否両論、真っ二つに別れていることでした。美術にちょっと興味があるのだけれど、そんなに詳しくないと自己評価する人たちには概ね好評のようで、「ためになった」とか「芸術の市場はそうなっているのかと納得した」など、不思議なほど素直な意見が目につきました。一方、「きっとこの人はアート好きを自任している人。ひょっとしたら美術に関する記事を書くフリーライター、もしくは、アーティストか、少なくてもアーティスト志願の芸術系大学院生・・・」と思われる読者の言葉には鋭いトゲを感じさせられるのです。おそらくは、「成功者」としてのアーティストである村上隆氏への強い興味と嫉妬心が裏腹になっているのでしょう。そうした複雑な感情を覆い隠すために、「村上は運が良かっただけ」、「村上の視点は偏っている」という自説を、いかにも「論理的」であるかのように言葉を選びながら自説の中で展開しているのです。しかし、自制心を働かせ、論理的であろうとすればするほど、かえって嫉妬心が露になるという、彼らの狙いとは裏腹の結果となっているように私は思いました。こうしたことは、日本の芸術市場に固有な現象とは言い切れませんが、興味深い点なので、また後ほど論じたいと思います。

さて、村上隆氏の市場における高い評価を私がどう理解しているかについて。彼が欧米芸術市場のルールを綿密に研究しつくしていることは紛れもない事実だと思うのですが、もう一点、私が注目しているのは、彼がもともと学生時代には日本画の勉強をしていたということです。ご存知でしたか? 「現代アート」でもなければ「西洋絵画」でもない。ましてや、「先端芸術表現」などではなく、彼の専攻は「日本画」だったのです。このことは、私の想像力を大いに刺激します。

「日本画」は、私自身を含め、多くの人にとっては馴染みのない世界ではありますが、ある意味、日本国内の芸術市場で唯一、確固たる価格設定と流通の仕組が整っている分野ではないでしょうか。少なくても政治家の裏金問題がマスコミで取り沙汰されたり、松本清張などの推理小説で、国を揺るがすような大事件が描かれる際の小道具として決まって登場してくるほど、日本画の換金性は確立されているようです。村上さんは学生時代、こうした日本の芸術市場の仕組み、あるいは、日本の社会の仕組みそのものを知り尽くした著名な先生方の薫陶を日々受けてこられたわけですね。ですから、村上さんは欧米の芸術市場を研究しつくしただけでなく、日本の芸術市場、日本社会の仕組み、日本人が絵画というものにどういう価値を見い出してきたのかについて、感覚的に理解できるほどの深い知識を持っておられるのではないか…と推測します。

西洋絵画や現代アートを教える先生方は、芸術家が作品を作った際のイデオロギーについて論じたり、様式の成り立ちについて第三者的に語ることが多いようです。一方、日本画の巨匠たちは実際に絵を描くことでお金を稼ぐにはどうしたら良いか、その具体的なノウハウを様々なレイヤーで体験しておられるので、こうした情報を間近に見聞することができた村上さんは、同世代のいわゆる「現代美術家」が持ち得ない深い洞察力を体得されたことでしょう。村上さんによる私たち一般的な日本人への最大の貢献は、「絵画」が自己表現の結果としての作品として存在するだけではなく、これが経済的な価値をともなう動産(commodity)の一種であることを改めて認識させてくれた点かもしれません。欧米の芸術市場の仕組みを研究しつくした村上さん世代のアーティストは、実は、他にも多くいると思うのですが、その中で村上さんが群を抜いて成功したカギは、やはり、彼が日本画を勉強したことにあるのではないでしょうか?

■ユーザーの「自己表現欲」とその先にあるもの
ここで冒頭に述べた、「アマゾンの読者書評」の興味深い点に戻りましょう。アマゾンの書評だけに限ったことではないのですが、ネット上で積極的にユーザーとしてのコメントを寄せる人たちは、単にその製品分野に強い関心があるだけではなく、彼ら自身、自己表現への欲求が極めて高いという特性があるのではないでしょうか。この傾向は、サイトで扱われている製品の「ユニーク度」が高かったり、「表現系」の製品であるほど強くなっているように見受けられます。ここで私が言う「ユニーク度」の高い商品というのは、その性能よりも外観、デザインが付加価値を増幅させているもの・・・たとえていうならオーディオ、家具、車、バイク、服もそうでしょうし、万年筆やパソコン周辺機器など。それを選ぶことによって、「私はこういう人物です」というステートメントになるような、自己表現を助けるアイテムを表します。「表現系」の商品とは、書籍は当然のことながら音楽、演劇、ダンス、絵画など、いわゆるアート系に分類されるすべてのモノ、コトです。

こうしたものについて一般ユーザーが語る時、「評者」としての顔が「ユーザー」としての顔よりも色濃く出て、あたかもその分野における「権威者」であるかのような語り口になっていることが多いように感じるのは、私の思いすごしでしょうか? これは、今話題のブログなどにも当てはまるかも知れませんが、誰もが容易に情報を発信できるようになった時代であればこそ、果たしてこれらのブログやコメントが、実際、どれほど読まれているのかどうか。あるいは、「ユーザーのコメント」が本当に信頼するに足る情報といえるのかどうか・・・ 

金さんはどのようにお考えですか?