創造と共感の経済学-モノより思い出?

Saturday, August 19, 2006

文化の経済化と経済の文化化

金正勲→岩渕潤子さま

■文化の経済化と経済の文化化
「昭和ダイナマイト」の舞台になっている戦後の昭和という時代は、言い換えれば大量生産時代。10人1色の時代ですね。それが今や1人10色の時代になってきたわけで、人々の欲求やニーズが多様化し、消費構造・行動も大きく変化してきました。必要性に応じてモノを購入していた時代から、モノが持つ機能や品質に関心が移り、今やモノが持つ物語、またそれを消費することがもつ意味やそこから得られるエクスペリエンスがより重要になってきたわけです。

私は最近、「文化の経済化」と「経済の文化化」という現象に注目しています。「文化の経済化」というのは、文化が商品として市場で取引きされるようになることを指すもので、日本でコンテンツ産業(映画、放送、新聞、音楽、アニメ、ゲーム等)といわれるものはこうした文化の経済化現象の典型例です。一方で、「経済の文化化」というのは、潜在的にはあらゆる経済的活動において文化的な要素が介在するようになることを指すものです。つまり、今まではよいモノを作りさえすれば売れた時代から、そこにストーリーを持たせ、共感させるという、人々の感性的なニーズまで満たさないとモノが売れない時代になってきたということです。

たとえば、「プリウス」という環境親和性が高いトヨタの車が日米で予想以上にヒットしたことはご存知かと思いますが、その背後には自らの消費が持つ意味やそれによって得られるエクスペリエンス、そして自分の価値観やライフスタイルとの関連性という側面から消費という行動を位置づけようとする消費者がいる気がします。このように成熟する消費者側の思考や行動に生産者側は対応しなければいけないわけで、最近デザイン、ブランド、ストーリーテリング、エクスペリエンスといった言葉が注目されるには、こうした理由があると思います。

岩渕さんが言及されたピアノの例も本質的には同じことだと思います。私はそれを読んだときに、変容する資本主義市場の本質を垣間見た気になりました。つまり、消費者にしてみれば、演奏の喜びを味わうというのは二次的な問題であり、自分がピアノを購入したことで以前より芸術的になった(または芸術が生活の一部になった)気持ちになることに関心があるのではないかと思います。これはある意味で、薄っぺらなことかも知れませんが、実際の消費行動がそうなっていくわけですから、生産者もそれに対応しなければならない。したがって、ピアノの性能向上だけではなく、そういう気にさせるためのピアノの売り方を工夫することが以前より大事になってきたということでしょうか。その是非については議論の余地がありますが、こうした「経済の文化化」という流れが今後加速されていくことは間違いないと思います。

■戦略性のない日本の芸術市場?
最近、アーティストの村上隆さんが書いた『芸術起業論』という本を読みました。この本の中で、村上さんは日本の芸術分野を厳しく批判するわけですが、その内容はこの分野の日本人はゲームのルールを理解しようとせず、皆が勘違いをしたままの状態が続いているということです。本の中で村上さんは自分が成功した理由は、瞬間的なインスピレーションが評価されたからではなく、何年もかけて欧米の芸術市場におけるゲームのルールを綿密に研究しつくし、そのルールの中で作品を制作し、それが持つ意味やストーリー(彼の言い回しを借りれば‘文脈‘を作り出すこと)をデザインし、その世界の中で何が自分独自のネット・コントリビューションであるのかを明示的に示すことに高い戦略性を持って取り組んできた結果であると指摘します。そういう意味で彼の成功は、右脳的な想像性や創造性の産物だけではなく、左脳的な戦略的マネジメントという側面が非常に大きな役割を果たしたといえるのではないでしょうか。創造性とは社会的に構成される(socially constructed)ものであり、よって社会に対し価値を認めさせるための‘戦略‘というのが必要となりますが、それを黙殺し続けてきたのが日本の芸術分野であり、それは大きな勘違いだ、と村上さんは批判しているのです。

岩渕さんはどう思われますか?

Thursday, August 10, 2006

『昭和ダイナマイト』を知っていますか?

岩渕潤子→金正勲さま

■レトロなフラッシュ・アニメがかわいい!
最近、MTVで放映しているフラッシュ・アニメ、『昭和ダイナマイト』の一部を偶然、入ったコーヒー店で見かけ、その秀逸さに目が吸い寄せられてしまいました。

すぐにMTVのサイトで調べてみると、「舞台は昭和日本。大田区に位置する、ごく小さな中小企業。普段は建設業の下請けをしているが、実は彼らは次々と現れる悪のロボットに立ち向かう戦闘集団であったのだ。その名も『昭和ダイナマイト』!」という番宣コピーが出ていました。現在放映中の番組であるため、まだネットでは配信されていない(7月25日現在)ようですが、早くネットでいつでも見れるようにならないかと待ち遠しくてたまりません。

近頃、はやりの「バイラルCM」の文脈で紹介されるフラッシュ・アニメを含むネットCMには「作品」として見ても面白いものが多く(世界おもしろCMランキング)、商品のことなどはどうでも良く、CMだけを見て面白がっている人が多いことでしょう。私自身も正にその典型で、MTVのサイトで配信される過去の番組とネットCMと、同じ熱心さを持ってアクセスしています。


★今、イチバン話題のバイラルCMはコレ   


極魔界村

       
 

なので、今日はネットCMとして流れる面白い短編映像についてお話しようと思っていたのですが、『昭和ダイナマイト』に現れる日本人の郷愁をそそる「夕日に照らされた昭和の町並み」と「昭和」をイメージする実直そうな、いわゆるイケメンとは言いがたいルックスの日本人男性が、あくまでも真面目そうに、かわいらしいロボットで悪者と闘う様子は、なんとも平和で微笑ましく・・・ちょっと違うテーマを思いつきました。

それは、『昭和ダイナマイト』に出てくるような、小さな町工場が支えていた日本の製造業と高度経済成長が象徴する、戦後の「昭和」という時代の消費構造のことです。

■「昭和」をキーワードに考える日本人の価値観
私はもともと、文化や芸術という、大部分は非物質的な財をやり取りする世界の人間なので、そういった非物質材を生み出す芸術家たちがどうやったら暮らしていけるようになるのか・・・ということを考えないとならない立場にあります。

「鑑賞者を増やさないと芸術の市場は育たない」とか、「受け手の感性を磨かなければ優れた芸術は理解されない」などといったことは良く言われるわけですが、「なぜ鑑賞者が増えないのか」、「なぜ受け手の感性のレヴェルは向上しないのか」という議論はあまりされないのが文化・芸術の世界です。

で、私は考えたのですが、美術にしろ、音楽にしろ、「鑑賞者が増えない理由」、その根本的原因は、日本人の労働時間と通勤時間が長過ぎるからではないかと思ったわけです。日本人の就労時間を考えると、とても芝居やコンサートがスタートする時間までに、ゆとりを持って劇場に到着することもできなければ、最後まで鑑賞していると、公共の交通機関がその日のサーヴィスを停止して、家に帰りつくことができなくなってしまいます。感性の研ぎすまされた人には、そんな暮らしは耐えられないので、自己防衛機能として、日本人の感性はどんどん鈍くなって行ったのではないでしょうか。

これが実は、日本の高度経済成長を支える原動力になったものと私は分析しているのですが、時間を奪われた人々は、残業代で稼いだ賃金を家電製品や自動車の購入に費やしてはストレスを発散し、豊かになったような気持ちになっては、また、働き、さらに増えた賃金で新たな商品を買うというサイクルを邁進する結果となったのでしょう。自分たちが労働して生産したものを、みずから稼いだ賃金で購入するわけですから、これほど効率の良い経済循環はないですよね。たしかに、この無駄のない経済循環は日本に高度経済成長をもたらしたわけですが、果たしてそれで、「日本人」は豊かになったのでしょうか?

「芸術や文化の市場がなぜ育たないのか」という話に戻りますが、私は、今まで日本で「芸術・文化の振興」と呼ばれてきたものの多くが、例えば「ピアノをできる限り沢山売るための音楽教育」であったり、あるいは、「高額ステレオを沢山売るためのクラシック鑑賞」、または、「TVを売るための映画鑑賞やスポーツ観戦」だったのではないかと思っております。たぶん、「音楽を楽しむためのステレオ」だったり、「自分で演奏する喜びを味わうためのピアノ」ではなかったのではないでしょうか? なぜなら、こうしたことは、すべて「絶対的なある程度の長さの時間」を必要とする行為だからです。時間のない日本人はこうした行為を象徴するモノを購入することで、あたかもソレそのものを手に入れたかのように、簡単に満足してきたのではないでしょうか。

そのため、高度経済成長期以後、より高額なピアノやTV、ステレオを所有している人のほうが、あたかも「より熱心な愛好家」であるかのような錯覚を持つ日本人が増えてしまったのではないでしょうか。

ピアノ・メーカーは経営戦略上、ピアノのお稽古教室を全国組織的に展開し、また、ピアノを購入した多くの人は、最初はこうした教室に通うものの、思ったより熟達するのに時間がかかる、勉強したり、働く時間が最優先されるために練習する時間がないなどの理由で、あっという間にやめて行ってしまうわけです。しかし、ピアノ・メーカーとしては、ピアノを販売したことで第一義的な「製品を売る」という目的、また、ほぼ全員に「一度はお稽古教室に通わせる」ことは達成しているわけですから、「購入者がそれを利用し続けるかどうか」のフォローについては、あまり興味を持たなかったようです。

昭和の時代、核家族がどんどん増え、団地の各部屋にピアノが購入されて行ったのですから、新しいピアノをより多く売ることに集中したほうが、お稽古教室の生徒の数を減らさないようにする努力よりも、メーカーにとってみれば、遥かに効率の良い戦略だったのではないかと思います。

日本がいくら高度経済成長を続けていたからと言って、日本の社会には2台目のピアノを購入するゆとりのある家庭は少なかったはずだし、また、ピアノの練習を継続する人は少ないため、購入者が熟達してプロの演奏家を目ざし、アップライト・ピアノをグランド・ピアノに買い替えるといった需要もほとんど見込めなかったのでしょう。日本企業の長所は、「現実的であること」と「短期的な結果を最優先すること」ですね。

■日本の社会には「絶対時間」が足りない?
芸術や文化だけでなく、日本では「リゾート」施設の失敗が多く見受けられますが、「2泊3日」以上の休暇が取りずらい日本の平均的な労働者にとって、「リゾート施設」を利用することなど、非現実的なことだと思われます。

21世紀に入り、一部の日本人の価値観、及び、労働形態に変化が見られるようになってきたと言われています。しかし、大部分の日本人はいまだに「より長く働いて」も「残業代をもらえる」ことを嬉しがり、その対価として得た賃金で新しいTVや自動車を買って満足しているように見えます。

もし、日本が創造型社会へと変化を遂げていこうとしていて、絶対的な時間を必要とする創造的消費が可能な労働環境の整備をしていかなければならないのであれば、現状のままだと、そのトランジションはうまくいかないのではないでしょうか? ごく一般的な社会人にもっと自由になる時間が確保できなければ、「リゾート地でのんびり休暇を過ごす」といったコンセプトの施設、それどころか旅行商品も売れなければ、芸術や文化の消費量も増えることがないのではないかと危惧しております。

金さんはどうお考えですか?