創造と共感の経済学-モノより思い出?

Saturday, February 24, 2007

創造性を発揮する際に有効な相互作用のフォーミュラとは?

岩渕潤子→金正勲さま

■水の迷宮で体感したこと
イタリアのヴェネト州に出張して、観光客でごったがえすカルネヴァーレ期間中のヴェネツィアで、まさに「相互作用の無い多様性」と「相互作用のある多様性」について考えさせられる機会がありました。その比較というよりも、生産的な創造性を誘導するための「相互作用を起こすためのフォーミュラ」とでもいいましょうか。相互作用の確率と誘導する方向の精度を高める上での一つの典型的な事例だと思うのですが、そのビジネス・モデル(彼らがそれをビジネスと考えているかどうかはともかく…)は当事者たちからIncentive Managementと呼ばれていました。通常、「インセンティヴ・マネージメント」という言葉の意味は、リテール・セールスのコミッション配分の適切な管理を指すはずで、しばしばネット上で目にするのはその自動管理システム・ソフトウェアのことでしょう。しかし、私がヴェネツィアで目にし、体験した「インセンティヴ・マネージメント」とは、まったく異質な世界でした。

これから話すことは若干、奇異に聞こえるかも知れませんが、私がその「ビジネス・モデル」を目の当たりにすることになったのは、あるフランス人のメディア系企業オーナー夫妻が主催する仮面舞踏会でのことでした。「舞踏会」というだけでも時代錯誤的ですが、「仮面舞踏会」というのは、カルネヴァーレ(謝肉祭)を観光資源として盛大に祝うヴェネツィアならではのことで、2月の期間中、ラグーナの運河沿いに点在する大邸宅では夜ごとに華やかな夜会が開かれているのです。個人の邸宅なので看板が出ているわけでもなく、入り口を探すのも一苦労ですが、招待状に書かれた住所を頼りに会場へとたどり着き、夜9時過ぎからゲスト全員が揃うのを待ってカクテルが供されます。そして、ようやく上階に上がって、10時頃から大広間での着席晩餐会が始まるわけです。だいたいどこのパーティーでも十名が一つのテーブルに別れて着席しますが、同じ国籍の人だけに偏らないように、そこは主催者が配慮して、多国籍な顔ぶれとなっています。150名ほどのその夜のゲストの中で、日本人は私と同行者だけでしたが、我々のテーブルは他にイギリス人の母娘、フランス人夫婦、アルゼンチンから来たカップル、それにイタリア人のゲイ・カップルといった顔ぶれでした。私のすぐ後ろのテーブルにはアメリカ人のカップル、ロシア人のカップルなどがいて、どこもみな初対面なはずですが、自己紹介を交えて、すぐに活発な会話がスタートしていました。そのパーティーのテーブルに着いているということじたいが、その人たちが旅慣れていて、世界各地を訪れた経験があり、複数言語を話し、さまざまな国の文化や人種、恋愛観や道徳についても偏見を持たず、何らかのプロフェッショナルとしての職業を持つ人たちであるという担保になるわけで、皆がある種の安心感を持って会話を行うことができるのです。基本的な価値観の共有ができていることがわかっており、また、同じ家のゲストという演出もあることから、初めて出会った人どうしであるにもかかわらず、お互い、かなり単刀直入な会話がしやすい雰囲気があるわけですね。ここで私が目にしたのは、正に創造性を発揮するにおいて、極めて生産性が高く、無駄のない、相互作用の強い多様性、しかも、それが意図的にデザインされた状況だったわけです。この「意図的なデザイン」を、その夜の舞踏会の主催者夫妻は「インセンティヴ・マネージメント」と呼んでいたのです。私が参加したイヴェントは、彼らがヴェネツィア市民として、街の魅力を最大限に国際的にアピールすることを目的として行われたものですが、場合によっては新しいビジネスを始めるために投資家たちの出資を募る目的、あるいは、業界標準を決定するための合意形成を行うための場も、こうしたところで、入念な演出の上で儲けられているようです。館の主人である夫妻がどんなクライアントを抱えているのか、私なりに情報収集をしてみましたが、スイスの金融機関、イギリスの大手メディア・グループ、ドイツの有名自動車メーカー、アメリカの製薬会社など・・・なるほどと考えさせられるリストになっていました。日本企業は一つも入っていません。

■情報としてのヒトの「検索」と「フィルタリング」
私はこの「夜会」に参加してみて、実にいろいろなことを考えさせられました。一つは、近頃ではもっぱらネット上でのみ活発に行われていると思い込んでいたソーシャル・ネットワーキングが国境を越えて、かなり高度なレヴェルにおいてリアル・ライフで行われているという事実の再認識。その高度なネットワークに入り込むことがリアル・ライフで結実されるための最初の入り口・情報は、もしかしたらネット上にあるのかも知れないこと。そして、目的と様々な条件によってフィルターされ、一ケ所に集められた招待客らは、主催者にとって、あるいは、招待客どうしにとっても、貴重な情報そのものであるということです。すでに目的やフィルターによって評価され、選択された招待客のみがそこに集められているので、彼らは相互にとって、極めて価値の高い情報媒体といって良いのではないでしょうか。そこで新しいビジネスや投資の可能性、コレクターにとって不可欠な情報、国際情勢に関する意見交換、より豊かな生活を送るためのパートナー探しに至るまで、さらに絞り込んだ情報のやり取りが行われるのです。こうしたアクティヴィティのプロセスで、唯一、ネット上のソーシャル・ネットワーキングとの違いは、さまざまな経験値の情報が一般大衆に公開されることは決してなく、リアル・ライフでその場所にたどり着いた者たちの間のみで共有、再配分されるだけであるということでしょうか。ただし、この閉じられたサークルの中での情報の循環、評価、再配信は極めて活発で、多くの場合、何らかの創造的な活動に結びついていっているものと思われます。

しばしば実業の世界でデファクト・スタンダードの形成に失敗してきた日本企業の敗因を考える時、経営者たちがこうした合意形成のためのベースとなるネットワークの中にまったく入っていないということを考えさせられます。世界的に見た際の標準化の勝ち負けというのは、おそらくリーダーの一人勝ちパターンでは駄目で、同じテーブルに着いている人たちすべての面目が立つよう、どれだけの配慮を示すことができるかなのかも知れません。日本の国内市場規模は、ヨーロッパの国々、それぞれと比較すると確かに大きいかも知れませんが、アメリカのように英語圏すべてに影響力を持てるわけではなく、だとしたら、ヨーロッパの国々がしているように、同じテーブルに着いた人たちと根気良く会話し、何が狙いなのかを探りながら、みんながハッピーになる道を見つけていくのが無難でしょう。アメリカのように、自分だけが一人勝ちしようとするパターンは日本には無理があるように思えてなりません。そのために「社交」、もしくは、このような意味での「インセンティヴ・マネージメント」は極めて重要な切り札のような気がします。

■Second LifeはSecond Class?
さて、Second Lifeですね・・・私も大きな感心を持って注目しています。ネット上の世界でのみ「所有」しているものや活動に対しても「所有権」が認められ、それに伴って課税されるというのは今までにないことで、一つの大きなパラダイム・シフトが起ころうとしているのかも知れません。しかし、仮想上の空間におけるアバターとしての自分の役割とリアル・ライフでの自分自身の立場が乖離してしまったような場合のことを考えると・・・正に映画のMatrixのような、現実の肉体は昏睡した状態でどこかにあって、仮想世界の自分だけがアクティヴに何かをしているといったことを想像して、ちょっと怖い気がします。また、リアル・ライフで活躍して成功を納めている人たちも引き続き存在しているわけなので、もしかすると、現実世界で成功できなかった人たちがお金をかけずに低エネルギーで生命を維持する方法を編み出し、どこかで生身の肉体は横たえて、もっぱら脳内とネット上のサイバー・ワールドでのみ活動するといった二極化が起こってしまうことも否定できなくはありません。新たな格差社会、もしくは階層社会とでもいうのか…その意味で、Second Lifeという名称そのものが非常に意味深というか、怖いもののような気がするのは私だけでしょうか。

Sunday, January 28, 2007

創造性=多様性+相互作用

金正勲→岩渕潤子様

■多様性は創造性発揮の十分条件ではない
今回の岩渕さんのポスティングは、「相互作用の無い多様性」という状態をどう捉えるか、という問題かと思います。よく「多様性は創造性の発揮において重要だ」という話を聞きますが、もし多様性が多様性のままで、多様な部分同士の相互作用がないとすると、創造性の発揮は期待できないと思います。言い換えれば、同じ考えをする人が100人集まるよりも、異なる考えを持った人が10人集まった方が創造性が発揮される可能性は高くなりますが、もしその10人の相互作用がなければ創造性は高まらないということです。そういう意味では、岩渕さんが仰るとおり、一人よがりの孤立した自己流が蔓延したとしても社会全体の創造性が高まるとは期待できない、という点については私も同感です。

■情報の垂れ流しとWeb2.0
今日のような氾濫する情報の時代においては、メタ情報または評価情報と呼ばれる「情報に関する情報」は益々重要になります。情報を見極めるには自ら経験をするか、又は情報を見分ける目利き能力を持つことが必要ですが、情報量が膨大になっている現在、それは簡単なことではありません。財の性能や品質が安定的なコモディティの場合は、生産者側と消費者側の間で情報の非対称性が低いために評価情報が持つ価値はそれほど大きくありませんが、コンテンツのような経験財的な性質が強いものについては、既にその財を消費・経験した人々による評価情報というのは‘潜在的‘に重要な意味を持ちます。ここで‘潜在的‘というのは、岩渕さんが心配されているように、評価情報が単なる自己表現の産物としてブラックボックスの中に垂れ流しされてしまうリスクがあるからです。ただ、Web2.0に代表されるような一連の流れは、そのような垂れ流される運命にあった個々の評価情報が、データベースに蓄積され、且つ検索されることで、再利用を可能にしました。Web技術の発展によって、今まで消費主体に徹してきたユーザーが、今や自らコンテンツを創造し、それを瞬時にグローバルに配信できるようになった。つまり、誰もが創造や配信の主体になったことで、情報やまたその情報に関する情報(=評価情報)が豊富になり、さらにそれらを検索可能にする(グーグルのような)技術的手段が登場した結果、人間の創造性の発揮がより促進される環境が整備されたわけです。

■豊饒の経済の主役は、「評価情報」と「検索技術」
最近、ロングテールという現象が注目を集めていますが、それを理解する上で重要になる概念の一つに「豊饒の経済(Economics of Abundance)」というものがあります。ここで豊饒とは、「(有形財や無形財を含む)財ではなく、その財に関する情報、つまりここでいう評価情報が豊富になったことを指します。よくamazon.comが例として挙げられますが、まずここで重要な点は、評価情報を展示・陳列できるスペースが無限になったことです。それによって、今まで物理的な陳列スペースに収まりきれなかった財が陳列可能となり、さらにその無数の財から、関連情報・評価情報の検索を通じて、個々のユーザーにカストマイズされた情報や財が入手できるようになりました。その検索技術やリコメンド技術の発展によって今まで認知されなかった財やサービスが消費者の関心を集め、販売に繋がる。言い換えれば、今まで埋もれていたニッチ財が発掘され、ヒットにつながる可能性が生まれたわけです。

■ブログのコメント欄
余談ですが、私のゼミの学生が、学内のメディア関連研究所に入所する際に、面接で「あなたをメディアにたとえると何ですか」という質問に対し、「ブログのコメント欄」と答えたそうです。それはなぜか、との問いに対し、彼女は「コメント欄はメッセージの一方通行ではなく、双方向のコミュニケーションの場を提供するメディア」であるからと答え、見事合格したそうです。ブログがそれ以前のメディアと異なる点は、トラックバックやRSSといった「双方向性を自動化」することによって、自己完結ではなく、コミュニケーションを促進する仕組みを取り入れた点ではないでしょうか。そういう創発的な相互作用の可能性をブログのようなWeb2.0メディアは秘めている点が興味深いと思います。

さて、Second Life、そろそろ日本上陸です。一ヶ月に数百万ドルが動き、米国議会はSecond Life内で儲けたユーザーに課税を検討しているとか。この一連の流れ、岩渕さんはどうお考えですか。

Sunday, November 05, 2006

「オレ流」に見る日本的価値判断の危うさ

岩渕潤子→金正勲さま

■LEGOを買ってもらえない子供の場合
金さんのLEGOブロックのアナロジーには感心させられましたが、LEGOのように誰でも子供の頃に一度は手に触れた経験のあるものは、自分自身の幼少期にかんがみても、いろいろ考えさせられることが多いですね。私自身の場合、おそらく祖父母か、両親の友人の誰かからのプレゼントとしてLEGOの基本的なセットが我が家にあったように記憶しています。それで遊ぶことによって、また、箱に印刷された魅力的な写真を見ることによって、子供としては、より多くのLEGOパーツが欲しくなるわけです。より複雑で大きな構造物を作ろうとすれば、接続部分に使うパーツ各種や、セットには入っていない特別なパーツがないと、それ以上のことができないのがLEGOですから、当然私もクリスマスや誕生日の機会をとらえて、そうしたものを買って欲しいと親にねだった記憶があります。しかし、ここで興味深いのは、私の両親がガンとしてLEGOを買ってはくれなかったということです。今になってみるとよくわかるのですが、新しいパーツを買い続けないかぎり、新しいものを作ることができないオモチャは子供に相応しくないと両親は判断したようで、そのかわりに私に与えられたのは色とりどりのスティック状の粘度でした。これを適当な大きさに切って丸めたり、いろいろなカタチにして、要はパーツから自分で作ってみなさいというのが私の両親の答えでした。

幼稚園の頃に好きなだけLEGOを買い与えられ、それでいつも遊んでいたという体験をもとに建築家になったという知り合いもいますから、決してLEGOを否定するわけではありません。建築というのは、必ず発注者がいて、ある一定の基準に沿って大勢の人たちと協調的な作業のもとで行う創造行為ですから、小さい頃から一定の条件による規範の中で取捨選択を繰り返すという遊びは、実務的な建築家を育てる上では重要な経験だったのではないでしょうか。LEGO好きなオトナの中に、建築家や大企業で働くエンジニアなど、秩序を重視する仕事についている人が多いのは、なるほどと納得させられるものがありますね。一方、「パーツから自分で作ってみなさい」といって育てられた子は、大きさ、色、カタチ、いっさいの制約がないわけですから、文字どおりに「型にはまらない子供」に育っていきます。パーツから自分で作るとなると、基本的には互換性のないものを作ることになるので、えてして一人遊びが得意になり、自分の作ったものはオンリー・ワンですから、他者と比較のしようもなく、人と自分が違うことは当たり前だと思うようになるのではないでしょうか。そうやって育った子供・・・私の両親や、私自身もその一人であるという認識ですが・・・は、人と同じことをするのに飽き足らないオトナに育ち、世の中の流行とは異なる価値観を持ち続けることになるような気がします。

■「オレ流」とは一体、誰の価値観なのか
そんな私が最近、すごく気になっているのは、電車の吊り広告などで、やたらと「オレ流」という言葉が目につくことです。「恋愛オレ流」に始まって、「オレ的餃子のうまい店No.1」、「オレ流もつ鍋の世界」などといった表現が巷に溢れていることについて、私はかなりの違和感を覚えるのです。雑誌の特集の見出しが並ぶ電車の中の吊り広告で、これほどまでに「オレ流」という言葉が氾濫しているということは、少なくてもこの「オレ」は個人ではなく、かなりの分母による「集団的オレ」なのではないか・・・というのが私の予測です。こうした雑誌がターゲットとするのが、どういう教育を受けた集団であるのか厳密にはわかりかねますが、その訴求テーマから判断して、「若い男性」を読者に想定しているとすると、「ゆとり教育」、もしくは「個性重視」といわれる教育を受けて育ってきた人たちが対象と見て良いでしょう。彼らは「叱るより褒める教育」によって、一人、一人のユニークな個性を大事に伸ばす教育を施されてきたはずなので、「個性」を表す言葉に敏感に反応します。「いい大学に入って、大企業に就職するばかりが人生じゃない」と教えられ、スポーツ選手やお笑い芸人、アーティストなどへの憧れがことのほか強いのも、この世代の特徴でしょう。「個性的である」と言われたほうが、「勉強ができる」と言われるよりも嬉しい世代。しかし、ここで目を向けなければならないのは、誰もがスポーツ選手やお笑い芸人になれるわけではないという現実です。「いい大学に入って、大企業に就職するばかりが人生じゃない」といって、進学をやめて放浪したり、就職を放棄するのは誰にでも簡単にできます。しかし、その上で一人の人間として生きていくには人並み以上の才能、経験に裏打ちされた確固たる信念などが必要となるわけです。

いま、電車の中でよく目にする「オレ流」は、言葉としては「オレ独自の」という憧れを秘めたものかも知れませんが、実際には、今までと変わらない「みんなが行く人気No.1の餃子屋」の話であったり、ごく当たり前の「恋愛観」のことだったりするような気がしてなりません。あるいは、「みんなが考える」個性的なロック・アーティストのイメージに合致した「〜〜さんが語るところの恋愛観」を、畏敬の念をもって「〜〜さんのオレ流」と定義して、それを参考にするのかもしれません。いずれにしても、雑誌の編集者が今という時代を見据えて提案するところの「オレ的なもの」でしかないことは否定できないでしょう。

■ネット上の「ユーザー評価」と「オレ流」の関係を考察する
さぁ、ここで「ユーザーが生み出す評価情報とWeb2.0のゆくえ」の話に入ってくるわけですが、日本においてはいったいどれぐらいユーザー自身からの評価情報が他のユーザーの購買判断に影響を与えているのでしょうか? おそらく、病院の治療情報、中古車の売買情報、不動産取引にかかわる話、女性にとっての化粧品に関する情報共有など、かなりのお金を支払い、かつ、日常生活を送る上で避けられない物品の購入については、多くの人がインターネットによる情報検索を真剣に利用しているようです。

一方、Amazonのような「嗜好品」を扱うサイトの場合、これは日本に特徴的な傾向かも知れませんが、「評価情報」欄は、むしろ、評価する側の「楽しみ」として利用されることが多く、ほとんど読まれていなかったり、商品を購入する、しないといった意思決定の判断には利用されていないという傾向があるようです。書籍に関していえば、出版各社は、近年、ネットでの書籍紹介情報の充実に力を入れるようになりましたが、「売り上げのコアは書店への営業であり、朝日、読売、日経に紹介記事が掲載されることの影響がいまだに一番大きい」と言っています。また、ネット通販は、書店での取り扱いが少ない本を入手するには大変便利ですが、それだけに書店では売れていない本の売り上げ順位が上位にくるなど、市場全体の動きとはかなりのズレがあるようです。そんな中、新聞に掲載された書評と違う意見をもった人は、今までであれば紹介する機会がなかった自分の意見を書き込むことができるようになったわけで、論理的には、新聞に記事を発表するのと同じぐらい多くの人の目に触れる可能性があるわけですから、その達成感は大きいでしょう。そういう意味で、Amazonのユーザーによる書評という事例においては、「ユーザーによる評価情報」というより、むしろ、その場を「自己表現の媒体」として利用する、リピーターである数名の特定個人に占有されているケースが目立つ・・・というのが日本のWeb2.0の特徴かも知れません。

同じように、手軽に自分が「情報発信」しているような気になれるということでブログを始めた人の数も多いようですが、書くだけで自己完結してしまって、実はこれらのほとんどが第三者には読まれていない・・・要は、ブラックホールに向かって個人的な情報を垂れ流しにしているだけといった状況も多いようです。そういうことを積み重ねていっても、対話が生まれない以上、exchangeやinter-actionは起こりえず、はたして今後の日本社会がより創造的になっていくのかどうかについは、はなはだ心もとなく感じてしまいます。自分だけ「情報を発信したつもり」の状態は、まさに「オレ流」という、一人よがりで、あたかも相手が存在していないかのような響きを持つ言葉と直結しているようで、私はとても気になっているのです。誰にも相手にされなくても、「オレ流」なんだからいいさ・・・と、餃子も、モツ鍋も、恋愛も、すべてがブラックホールに吸い込まれてしまって良いものでしょうか? 人は、相手の反応を求めるものではないのでしょうか? 金さんはどうお考えになりますか? 

Wednesday, October 18, 2006

「LEGOブロック」からみた創造性

金正勲→岩渕潤子様

■二つの創造性
日本画の専門家である村上さんが欧米の現代アート市場で活躍したということは大変興味深い事実ですね。私はこれには創造性の本質を考える上で重要なヒントが隠されていると思います。創造性には、無から有を生み出すいわゆる「ゼロからの創造性」と、既存のもの同士を創造的に組み合わせることで新しいものを生み出す「組み合わせによる創造性」の二種類があります。私はこれを説明する際、よくLEGOブロックのアナロジーを使いますが、つまり、LEGO自体を発明するのは前者のゼロからの創造性ですが、既存のLEGOブロックを創造的に組み合わせし、自分が描くイメージを形にすることを後者の組み合わせによる創造性と言えるでしょう。後者の創造性においては、全体のアーキテクチャーも重要ですが、誰も持っていない自分だけの秘密兵器となるLEGOブロックを持っていることは他者との差別化において非常に重要になります。村上さんの例で言えば、彼は欧米市場に今までなかった自分だけのLEGOブロック(=日本画又はその感覚)を持ち込み、それを自分の作品のコア要素として意識的に特徴付け、それまでのLEGOブロック(=欧米におけるアート)と見事に組み合わせたことによって成功を収めたのではないかと思います。

■芸術活動の目的とは
Amazonにおける村上さんの著書を巡っての賛否両論について、岩渕先生から興味深い分析をして頂きました。村上さんの活動に対する評価が分かれるのは、芸術活動とそれに付随する経済活動との関係性を、どう捉えるかによるところが大きいと思います。例えば、村上さんの作品を「経済的価値も高いが芸術的価値も高いもの」としてみるのか、それとも「経済的価値は高いが芸術的価値は低いもの」としてみるのか、というのは重要な基準軸の違いだと思います。つまり、ある芸術作品の経済的成功を芸術的成功として捉えるのか、それとも経済的成功・失敗とは関係なく、芸術的価値をだけを持って評価するのかという違い。そういう観点から言えば、村上さんを批判する方は二つのタイプがいて、一方は芸術的作品の経済的成功に対し一種のアレルギーを持っているタイプと、もう一方は自ら芸術的価値を判断する基準軸を持って、それに照らし合わせて村上さんの作品を評価するタイプの人がいる。

村上さんはどちらかといえば、「市場での成功≒芸術分野での成功」と考えるタイプで、市場での成功にかなりの焦点を当てながら、綿密に戦略を立てて実行に移すという、今までの日本のアートの世界から見れば異端児のようなもので、当然、風当たりも強いと思います。

■「コンテンツ政策」誕生の背景
文化政策で言えば、伝統的な文化政策の場合、経済的価値は低いが文化的価値は高い部門に補助金など支援を集中させてきたといえます。しかし、ここに来て文化政策と、(かなりの部分)重複する「コンテンツ政策」というのが登場した。その表現(=コンテンツ創造)活動がデジタル技術と結合することによって莫大な経済的価値を生み出すことが明らかになったことを受け、伝統的な文化政策を補完する形でコンテンツ政策が生まれてきたといえます。

管轄省庁でいえば、日本の場合、文化政策は文部科学省傘下の文化庁が中心的役割を担ってきたのに対し、コンテンツ政策の場合は経済産業省や総務省といった経済関連省庁が中心になっている。これは韓国などの諸外国にも見られる構図です。つまり、伝統的に文化政策関連省庁の管轄であった文化政策領域から、経済的な価値創出のポテンシャルが高いと思われる部門を切り出し「コンテンツ政策」という新しい名称を付けて振興政策を展開していく、というのが今のコンテンツ政策が生まれた背景であります。

そういう意味では、伝統的な文化政策が対象としていた、経済的価値は低いが芸術的価値は高いと思われる部門への支援から、芸術的価値は低いとしてもそれがもたらす経済的価値を生み出すポテンシャルが高いと判断される場合は、コンテンツ政策という名の下で積極的に支援策を講じていくという流れになっています。ただ、実際は近年のコンテンツ政策の大きな流れとしては、既存の文化政策を吸収する形で展開されていますことに注意したい。それはコンテンツ政策の政策目標に、文化の増進、富と雇用の創出による国家経済への貢献、ソフトパワーの増進、といった文化と経済領域を跨ぐ複数の政策目標が入り混じっているからでしょう。

■ユーザーが生み出す評価情報とWeb2.0の流行
Amazonの例でもう一つ興味深いのは、今までは新聞やテレビなどでプロによって一方向的に提供されてきた製品やサービスに対する「評価情報」が、今やユーザーによって生み出され、それが容易に検索可能になることで瞬時に流通・共有できるになったということです。これにはGoogleをはじめとする、いわゆるWeb2.0技術というのが重要な役割をするわけですが、岩渕先生はこの「Web2.0的な動き」について、どのような感想を持っていますか。

Tuesday, October 03, 2006

村上隆さんの智慧の源は「日本画」にアリ?

岩渕潤子→金正勲さま

■『芸術起業論』から考える「私たち自身」
村上隆さんの『芸術起業論』に関して、私が最も興味を惹かれたのは、内容そのものよりもアマゾンの読者書評による評価が賛否両論、真っ二つに別れていることでした。美術にちょっと興味があるのだけれど、そんなに詳しくないと自己評価する人たちには概ね好評のようで、「ためになった」とか「芸術の市場はそうなっているのかと納得した」など、不思議なほど素直な意見が目につきました。一方、「きっとこの人はアート好きを自任している人。ひょっとしたら美術に関する記事を書くフリーライター、もしくは、アーティストか、少なくてもアーティスト志願の芸術系大学院生・・・」と思われる読者の言葉には鋭いトゲを感じさせられるのです。おそらくは、「成功者」としてのアーティストである村上隆氏への強い興味と嫉妬心が裏腹になっているのでしょう。そうした複雑な感情を覆い隠すために、「村上は運が良かっただけ」、「村上の視点は偏っている」という自説を、いかにも「論理的」であるかのように言葉を選びながら自説の中で展開しているのです。しかし、自制心を働かせ、論理的であろうとすればするほど、かえって嫉妬心が露になるという、彼らの狙いとは裏腹の結果となっているように私は思いました。こうしたことは、日本の芸術市場に固有な現象とは言い切れませんが、興味深い点なので、また後ほど論じたいと思います。

さて、村上隆氏の市場における高い評価を私がどう理解しているかについて。彼が欧米芸術市場のルールを綿密に研究しつくしていることは紛れもない事実だと思うのですが、もう一点、私が注目しているのは、彼がもともと学生時代には日本画の勉強をしていたということです。ご存知でしたか? 「現代アート」でもなければ「西洋絵画」でもない。ましてや、「先端芸術表現」などではなく、彼の専攻は「日本画」だったのです。このことは、私の想像力を大いに刺激します。

「日本画」は、私自身を含め、多くの人にとっては馴染みのない世界ではありますが、ある意味、日本国内の芸術市場で唯一、確固たる価格設定と流通の仕組が整っている分野ではないでしょうか。少なくても政治家の裏金問題がマスコミで取り沙汰されたり、松本清張などの推理小説で、国を揺るがすような大事件が描かれる際の小道具として決まって登場してくるほど、日本画の換金性は確立されているようです。村上さんは学生時代、こうした日本の芸術市場の仕組み、あるいは、日本の社会の仕組みそのものを知り尽くした著名な先生方の薫陶を日々受けてこられたわけですね。ですから、村上さんは欧米の芸術市場を研究しつくしただけでなく、日本の芸術市場、日本社会の仕組み、日本人が絵画というものにどういう価値を見い出してきたのかについて、感覚的に理解できるほどの深い知識を持っておられるのではないか…と推測します。

西洋絵画や現代アートを教える先生方は、芸術家が作品を作った際のイデオロギーについて論じたり、様式の成り立ちについて第三者的に語ることが多いようです。一方、日本画の巨匠たちは実際に絵を描くことでお金を稼ぐにはどうしたら良いか、その具体的なノウハウを様々なレイヤーで体験しておられるので、こうした情報を間近に見聞することができた村上さんは、同世代のいわゆる「現代美術家」が持ち得ない深い洞察力を体得されたことでしょう。村上さんによる私たち一般的な日本人への最大の貢献は、「絵画」が自己表現の結果としての作品として存在するだけではなく、これが経済的な価値をともなう動産(commodity)の一種であることを改めて認識させてくれた点かもしれません。欧米の芸術市場の仕組みを研究しつくした村上さん世代のアーティストは、実は、他にも多くいると思うのですが、その中で村上さんが群を抜いて成功したカギは、やはり、彼が日本画を勉強したことにあるのではないでしょうか?

■ユーザーの「自己表現欲」とその先にあるもの
ここで冒頭に述べた、「アマゾンの読者書評」の興味深い点に戻りましょう。アマゾンの書評だけに限ったことではないのですが、ネット上で積極的にユーザーとしてのコメントを寄せる人たちは、単にその製品分野に強い関心があるだけではなく、彼ら自身、自己表現への欲求が極めて高いという特性があるのではないでしょうか。この傾向は、サイトで扱われている製品の「ユニーク度」が高かったり、「表現系」の製品であるほど強くなっているように見受けられます。ここで私が言う「ユニーク度」の高い商品というのは、その性能よりも外観、デザインが付加価値を増幅させているもの・・・たとえていうならオーディオ、家具、車、バイク、服もそうでしょうし、万年筆やパソコン周辺機器など。それを選ぶことによって、「私はこういう人物です」というステートメントになるような、自己表現を助けるアイテムを表します。「表現系」の商品とは、書籍は当然のことながら音楽、演劇、ダンス、絵画など、いわゆるアート系に分類されるすべてのモノ、コトです。

こうしたものについて一般ユーザーが語る時、「評者」としての顔が「ユーザー」としての顔よりも色濃く出て、あたかもその分野における「権威者」であるかのような語り口になっていることが多いように感じるのは、私の思いすごしでしょうか? これは、今話題のブログなどにも当てはまるかも知れませんが、誰もが容易に情報を発信できるようになった時代であればこそ、果たしてこれらのブログやコメントが、実際、どれほど読まれているのかどうか。あるいは、「ユーザーのコメント」が本当に信頼するに足る情報といえるのかどうか・・・ 

金さんはどのようにお考えですか?

Saturday, August 19, 2006

文化の経済化と経済の文化化

金正勲→岩渕潤子さま

■文化の経済化と経済の文化化
「昭和ダイナマイト」の舞台になっている戦後の昭和という時代は、言い換えれば大量生産時代。10人1色の時代ですね。それが今や1人10色の時代になってきたわけで、人々の欲求やニーズが多様化し、消費構造・行動も大きく変化してきました。必要性に応じてモノを購入していた時代から、モノが持つ機能や品質に関心が移り、今やモノが持つ物語、またそれを消費することがもつ意味やそこから得られるエクスペリエンスがより重要になってきたわけです。

私は最近、「文化の経済化」と「経済の文化化」という現象に注目しています。「文化の経済化」というのは、文化が商品として市場で取引きされるようになることを指すもので、日本でコンテンツ産業(映画、放送、新聞、音楽、アニメ、ゲーム等)といわれるものはこうした文化の経済化現象の典型例です。一方で、「経済の文化化」というのは、潜在的にはあらゆる経済的活動において文化的な要素が介在するようになることを指すものです。つまり、今まではよいモノを作りさえすれば売れた時代から、そこにストーリーを持たせ、共感させるという、人々の感性的なニーズまで満たさないとモノが売れない時代になってきたということです。

たとえば、「プリウス」という環境親和性が高いトヨタの車が日米で予想以上にヒットしたことはご存知かと思いますが、その背後には自らの消費が持つ意味やそれによって得られるエクスペリエンス、そして自分の価値観やライフスタイルとの関連性という側面から消費という行動を位置づけようとする消費者がいる気がします。このように成熟する消費者側の思考や行動に生産者側は対応しなければいけないわけで、最近デザイン、ブランド、ストーリーテリング、エクスペリエンスといった言葉が注目されるには、こうした理由があると思います。

岩渕さんが言及されたピアノの例も本質的には同じことだと思います。私はそれを読んだときに、変容する資本主義市場の本質を垣間見た気になりました。つまり、消費者にしてみれば、演奏の喜びを味わうというのは二次的な問題であり、自分がピアノを購入したことで以前より芸術的になった(または芸術が生活の一部になった)気持ちになることに関心があるのではないかと思います。これはある意味で、薄っぺらなことかも知れませんが、実際の消費行動がそうなっていくわけですから、生産者もそれに対応しなければならない。したがって、ピアノの性能向上だけではなく、そういう気にさせるためのピアノの売り方を工夫することが以前より大事になってきたということでしょうか。その是非については議論の余地がありますが、こうした「経済の文化化」という流れが今後加速されていくことは間違いないと思います。

■戦略性のない日本の芸術市場?
最近、アーティストの村上隆さんが書いた『芸術起業論』という本を読みました。この本の中で、村上さんは日本の芸術分野を厳しく批判するわけですが、その内容はこの分野の日本人はゲームのルールを理解しようとせず、皆が勘違いをしたままの状態が続いているということです。本の中で村上さんは自分が成功した理由は、瞬間的なインスピレーションが評価されたからではなく、何年もかけて欧米の芸術市場におけるゲームのルールを綿密に研究しつくし、そのルールの中で作品を制作し、それが持つ意味やストーリー(彼の言い回しを借りれば‘文脈‘を作り出すこと)をデザインし、その世界の中で何が自分独自のネット・コントリビューションであるのかを明示的に示すことに高い戦略性を持って取り組んできた結果であると指摘します。そういう意味で彼の成功は、右脳的な想像性や創造性の産物だけではなく、左脳的な戦略的マネジメントという側面が非常に大きな役割を果たしたといえるのではないでしょうか。創造性とは社会的に構成される(socially constructed)ものであり、よって社会に対し価値を認めさせるための‘戦略‘というのが必要となりますが、それを黙殺し続けてきたのが日本の芸術分野であり、それは大きな勘違いだ、と村上さんは批判しているのです。

岩渕さんはどう思われますか?

Thursday, August 10, 2006

『昭和ダイナマイト』を知っていますか?

岩渕潤子→金正勲さま

■レトロなフラッシュ・アニメがかわいい!
最近、MTVで放映しているフラッシュ・アニメ、『昭和ダイナマイト』の一部を偶然、入ったコーヒー店で見かけ、その秀逸さに目が吸い寄せられてしまいました。

すぐにMTVのサイトで調べてみると、「舞台は昭和日本。大田区に位置する、ごく小さな中小企業。普段は建設業の下請けをしているが、実は彼らは次々と現れる悪のロボットに立ち向かう戦闘集団であったのだ。その名も『昭和ダイナマイト』!」という番宣コピーが出ていました。現在放映中の番組であるため、まだネットでは配信されていない(7月25日現在)ようですが、早くネットでいつでも見れるようにならないかと待ち遠しくてたまりません。

近頃、はやりの「バイラルCM」の文脈で紹介されるフラッシュ・アニメを含むネットCMには「作品」として見ても面白いものが多く(世界おもしろCMランキング)、商品のことなどはどうでも良く、CMだけを見て面白がっている人が多いことでしょう。私自身も正にその典型で、MTVのサイトで配信される過去の番組とネットCMと、同じ熱心さを持ってアクセスしています。


★今、イチバン話題のバイラルCMはコレ   


極魔界村

       
 

なので、今日はネットCMとして流れる面白い短編映像についてお話しようと思っていたのですが、『昭和ダイナマイト』に現れる日本人の郷愁をそそる「夕日に照らされた昭和の町並み」と「昭和」をイメージする実直そうな、いわゆるイケメンとは言いがたいルックスの日本人男性が、あくまでも真面目そうに、かわいらしいロボットで悪者と闘う様子は、なんとも平和で微笑ましく・・・ちょっと違うテーマを思いつきました。

それは、『昭和ダイナマイト』に出てくるような、小さな町工場が支えていた日本の製造業と高度経済成長が象徴する、戦後の「昭和」という時代の消費構造のことです。

■「昭和」をキーワードに考える日本人の価値観
私はもともと、文化や芸術という、大部分は非物質的な財をやり取りする世界の人間なので、そういった非物質材を生み出す芸術家たちがどうやったら暮らしていけるようになるのか・・・ということを考えないとならない立場にあります。

「鑑賞者を増やさないと芸術の市場は育たない」とか、「受け手の感性を磨かなければ優れた芸術は理解されない」などといったことは良く言われるわけですが、「なぜ鑑賞者が増えないのか」、「なぜ受け手の感性のレヴェルは向上しないのか」という議論はあまりされないのが文化・芸術の世界です。

で、私は考えたのですが、美術にしろ、音楽にしろ、「鑑賞者が増えない理由」、その根本的原因は、日本人の労働時間と通勤時間が長過ぎるからではないかと思ったわけです。日本人の就労時間を考えると、とても芝居やコンサートがスタートする時間までに、ゆとりを持って劇場に到着することもできなければ、最後まで鑑賞していると、公共の交通機関がその日のサーヴィスを停止して、家に帰りつくことができなくなってしまいます。感性の研ぎすまされた人には、そんな暮らしは耐えられないので、自己防衛機能として、日本人の感性はどんどん鈍くなって行ったのではないでしょうか。

これが実は、日本の高度経済成長を支える原動力になったものと私は分析しているのですが、時間を奪われた人々は、残業代で稼いだ賃金を家電製品や自動車の購入に費やしてはストレスを発散し、豊かになったような気持ちになっては、また、働き、さらに増えた賃金で新たな商品を買うというサイクルを邁進する結果となったのでしょう。自分たちが労働して生産したものを、みずから稼いだ賃金で購入するわけですから、これほど効率の良い経済循環はないですよね。たしかに、この無駄のない経済循環は日本に高度経済成長をもたらしたわけですが、果たしてそれで、「日本人」は豊かになったのでしょうか?

「芸術や文化の市場がなぜ育たないのか」という話に戻りますが、私は、今まで日本で「芸術・文化の振興」と呼ばれてきたものの多くが、例えば「ピアノをできる限り沢山売るための音楽教育」であったり、あるいは、「高額ステレオを沢山売るためのクラシック鑑賞」、または、「TVを売るための映画鑑賞やスポーツ観戦」だったのではないかと思っております。たぶん、「音楽を楽しむためのステレオ」だったり、「自分で演奏する喜びを味わうためのピアノ」ではなかったのではないでしょうか? なぜなら、こうしたことは、すべて「絶対的なある程度の長さの時間」を必要とする行為だからです。時間のない日本人はこうした行為を象徴するモノを購入することで、あたかもソレそのものを手に入れたかのように、簡単に満足してきたのではないでしょうか。

そのため、高度経済成長期以後、より高額なピアノやTV、ステレオを所有している人のほうが、あたかも「より熱心な愛好家」であるかのような錯覚を持つ日本人が増えてしまったのではないでしょうか。

ピアノ・メーカーは経営戦略上、ピアノのお稽古教室を全国組織的に展開し、また、ピアノを購入した多くの人は、最初はこうした教室に通うものの、思ったより熟達するのに時間がかかる、勉強したり、働く時間が最優先されるために練習する時間がないなどの理由で、あっという間にやめて行ってしまうわけです。しかし、ピアノ・メーカーとしては、ピアノを販売したことで第一義的な「製品を売る」という目的、また、ほぼ全員に「一度はお稽古教室に通わせる」ことは達成しているわけですから、「購入者がそれを利用し続けるかどうか」のフォローについては、あまり興味を持たなかったようです。

昭和の時代、核家族がどんどん増え、団地の各部屋にピアノが購入されて行ったのですから、新しいピアノをより多く売ることに集中したほうが、お稽古教室の生徒の数を減らさないようにする努力よりも、メーカーにとってみれば、遥かに効率の良い戦略だったのではないかと思います。

日本がいくら高度経済成長を続けていたからと言って、日本の社会には2台目のピアノを購入するゆとりのある家庭は少なかったはずだし、また、ピアノの練習を継続する人は少ないため、購入者が熟達してプロの演奏家を目ざし、アップライト・ピアノをグランド・ピアノに買い替えるといった需要もほとんど見込めなかったのでしょう。日本企業の長所は、「現実的であること」と「短期的な結果を最優先すること」ですね。

■日本の社会には「絶対時間」が足りない?
芸術や文化だけでなく、日本では「リゾート」施設の失敗が多く見受けられますが、「2泊3日」以上の休暇が取りずらい日本の平均的な労働者にとって、「リゾート施設」を利用することなど、非現実的なことだと思われます。

21世紀に入り、一部の日本人の価値観、及び、労働形態に変化が見られるようになってきたと言われています。しかし、大部分の日本人はいまだに「より長く働いて」も「残業代をもらえる」ことを嬉しがり、その対価として得た賃金で新しいTVや自動車を買って満足しているように見えます。

もし、日本が創造型社会へと変化を遂げていこうとしていて、絶対的な時間を必要とする創造的消費が可能な労働環境の整備をしていかなければならないのであれば、現状のままだと、そのトランジションはうまくいかないのではないでしょうか? ごく一般的な社会人にもっと自由になる時間が確保できなければ、「リゾート地でのんびり休暇を過ごす」といったコンセプトの施設、それどころか旅行商品も売れなければ、芸術や文化の消費量も増えることがないのではないかと危惧しております。

金さんはどうお考えですか?