村上隆さんの智慧の源は「日本画」にアリ?
岩渕潤子→金正勲さま
■『芸術起業論』から考える「私たち自身」
村上隆さんの『芸術起業論』に関して、私が最も興味を惹かれたのは、内容そのものよりもアマゾンの読者書評による評価が賛否両論、真っ二つに別れていることでした。美術にちょっと興味があるのだけれど、そんなに詳しくないと自己評価する人たちには概ね好評のようで、「ためになった」とか「芸術の市場はそうなっているのかと納得した」など、不思議なほど素直な意見が目につきました。一方、「きっとこの人はアート好きを自任している人。ひょっとしたら美術に関する記事を書くフリーライター、もしくは、アーティストか、少なくてもアーティスト志願の芸術系大学院生・・・」と思われる読者の言葉には鋭いトゲを感じさせられるのです。おそらくは、「成功者」としてのアーティストである村上隆氏への強い興味と嫉妬心が裏腹になっているのでしょう。そうした複雑な感情を覆い隠すために、「村上は運が良かっただけ」、「村上の視点は偏っている」という自説を、いかにも「論理的」であるかのように言葉を選びながら自説の中で展開しているのです。しかし、自制心を働かせ、論理的であろうとすればするほど、かえって嫉妬心が露になるという、彼らの狙いとは裏腹の結果となっているように私は思いました。こうしたことは、日本の芸術市場に固有な現象とは言い切れませんが、興味深い点なので、また後ほど論じたいと思います。
さて、村上隆氏の市場における高い評価を私がどう理解しているかについて。彼が欧米芸術市場のルールを綿密に研究しつくしていることは紛れもない事実だと思うのですが、もう一点、私が注目しているのは、彼がもともと学生時代には日本画の勉強をしていたということです。ご存知でしたか? 「現代アート」でもなければ「西洋絵画」でもない。ましてや、「先端芸術表現」などではなく、彼の専攻は「日本画」だったのです。このことは、私の想像力を大いに刺激します。
「日本画」は、私自身を含め、多くの人にとっては馴染みのない世界ではありますが、ある意味、日本国内の芸術市場で唯一、確固たる価格設定と流通の仕組が整っている分野ではないでしょうか。少なくても政治家の裏金問題がマスコミで取り沙汰されたり、松本清張などの推理小説で、国を揺るがすような大事件が描かれる際の小道具として決まって登場してくるほど、日本画の換金性は確立されているようです。村上さんは学生時代、こうした日本の芸術市場の仕組み、あるいは、日本の社会の仕組みそのものを知り尽くした著名な先生方の薫陶を日々受けてこられたわけですね。ですから、村上さんは欧米の芸術市場を研究しつくしただけでなく、日本の芸術市場、日本社会の仕組み、日本人が絵画というものにどういう価値を見い出してきたのかについて、感覚的に理解できるほどの深い知識を持っておられるのではないか…と推測します。
西洋絵画や現代アートを教える先生方は、芸術家が作品を作った際のイデオロギーについて論じたり、様式の成り立ちについて第三者的に語ることが多いようです。一方、日本画の巨匠たちは実際に絵を描くことでお金を稼ぐにはどうしたら良いか、その具体的なノウハウを様々なレイヤーで体験しておられるので、こうした情報を間近に見聞することができた村上さんは、同世代のいわゆる「現代美術家」が持ち得ない深い洞察力を体得されたことでしょう。村上さんによる私たち一般的な日本人への最大の貢献は、「絵画」が自己表現の結果としての作品として存在するだけではなく、これが経済的な価値をともなう動産(commodity)の一種であることを改めて認識させてくれた点かもしれません。欧米の芸術市場の仕組みを研究しつくした村上さん世代のアーティストは、実は、他にも多くいると思うのですが、その中で村上さんが群を抜いて成功したカギは、やはり、彼が日本画を勉強したことにあるのではないでしょうか?
■ユーザーの「自己表現欲」とその先にあるもの
ここで冒頭に述べた、「アマゾンの読者書評」の興味深い点に戻りましょう。アマゾンの書評だけに限ったことではないのですが、ネット上で積極的にユーザーとしてのコメントを寄せる人たちは、単にその製品分野に強い関心があるだけではなく、彼ら自身、自己表現への欲求が極めて高いという特性があるのではないでしょうか。この傾向は、サイトで扱われている製品の「ユニーク度」が高かったり、「表現系」の製品であるほど強くなっているように見受けられます。ここで私が言う「ユニーク度」の高い商品というのは、その性能よりも外観、デザインが付加価値を増幅させているもの・・・たとえていうならオーディオ、家具、車、バイク、服もそうでしょうし、万年筆やパソコン周辺機器など。それを選ぶことによって、「私はこういう人物です」というステートメントになるような、自己表現を助けるアイテムを表します。「表現系」の商品とは、書籍は当然のことながら音楽、演劇、ダンス、絵画など、いわゆるアート系に分類されるすべてのモノ、コトです。
こうしたものについて一般ユーザーが語る時、「評者」としての顔が「ユーザー」としての顔よりも色濃く出て、あたかもその分野における「権威者」であるかのような語り口になっていることが多いように感じるのは、私の思いすごしでしょうか? これは、今話題のブログなどにも当てはまるかも知れませんが、誰もが容易に情報を発信できるようになった時代であればこそ、果たしてこれらのブログやコメントが、実際、どれほど読まれているのかどうか。あるいは、「ユーザーのコメント」が本当に信頼するに足る情報といえるのかどうか・・・
金さんはどのようにお考えですか?
■『芸術起業論』から考える「私たち自身」
村上隆さんの『芸術起業論』に関して、私が最も興味を惹かれたのは、内容そのものよりもアマゾンの読者書評による評価が賛否両論、真っ二つに別れていることでした。美術にちょっと興味があるのだけれど、そんなに詳しくないと自己評価する人たちには概ね好評のようで、「ためになった」とか「芸術の市場はそうなっているのかと納得した」など、不思議なほど素直な意見が目につきました。一方、「きっとこの人はアート好きを自任している人。ひょっとしたら美術に関する記事を書くフリーライター、もしくは、アーティストか、少なくてもアーティスト志願の芸術系大学院生・・・」と思われる読者の言葉には鋭いトゲを感じさせられるのです。おそらくは、「成功者」としてのアーティストである村上隆氏への強い興味と嫉妬心が裏腹になっているのでしょう。そうした複雑な感情を覆い隠すために、「村上は運が良かっただけ」、「村上の視点は偏っている」という自説を、いかにも「論理的」であるかのように言葉を選びながら自説の中で展開しているのです。しかし、自制心を働かせ、論理的であろうとすればするほど、かえって嫉妬心が露になるという、彼らの狙いとは裏腹の結果となっているように私は思いました。こうしたことは、日本の芸術市場に固有な現象とは言い切れませんが、興味深い点なので、また後ほど論じたいと思います。
さて、村上隆氏の市場における高い評価を私がどう理解しているかについて。彼が欧米芸術市場のルールを綿密に研究しつくしていることは紛れもない事実だと思うのですが、もう一点、私が注目しているのは、彼がもともと学生時代には日本画の勉強をしていたということです。ご存知でしたか? 「現代アート」でもなければ「西洋絵画」でもない。ましてや、「先端芸術表現」などではなく、彼の専攻は「日本画」だったのです。このことは、私の想像力を大いに刺激します。
「日本画」は、私自身を含め、多くの人にとっては馴染みのない世界ではありますが、ある意味、日本国内の芸術市場で唯一、確固たる価格設定と流通の仕組が整っている分野ではないでしょうか。少なくても政治家の裏金問題がマスコミで取り沙汰されたり、松本清張などの推理小説で、国を揺るがすような大事件が描かれる際の小道具として決まって登場してくるほど、日本画の換金性は確立されているようです。村上さんは学生時代、こうした日本の芸術市場の仕組み、あるいは、日本の社会の仕組みそのものを知り尽くした著名な先生方の薫陶を日々受けてこられたわけですね。ですから、村上さんは欧米の芸術市場を研究しつくしただけでなく、日本の芸術市場、日本社会の仕組み、日本人が絵画というものにどういう価値を見い出してきたのかについて、感覚的に理解できるほどの深い知識を持っておられるのではないか…と推測します。
西洋絵画や現代アートを教える先生方は、芸術家が作品を作った際のイデオロギーについて論じたり、様式の成り立ちについて第三者的に語ることが多いようです。一方、日本画の巨匠たちは実際に絵を描くことでお金を稼ぐにはどうしたら良いか、その具体的なノウハウを様々なレイヤーで体験しておられるので、こうした情報を間近に見聞することができた村上さんは、同世代のいわゆる「現代美術家」が持ち得ない深い洞察力を体得されたことでしょう。村上さんによる私たち一般的な日本人への最大の貢献は、「絵画」が自己表現の結果としての作品として存在するだけではなく、これが経済的な価値をともなう動産(commodity)の一種であることを改めて認識させてくれた点かもしれません。欧米の芸術市場の仕組みを研究しつくした村上さん世代のアーティストは、実は、他にも多くいると思うのですが、その中で村上さんが群を抜いて成功したカギは、やはり、彼が日本画を勉強したことにあるのではないでしょうか?
■ユーザーの「自己表現欲」とその先にあるもの
ここで冒頭に述べた、「アマゾンの読者書評」の興味深い点に戻りましょう。アマゾンの書評だけに限ったことではないのですが、ネット上で積極的にユーザーとしてのコメントを寄せる人たちは、単にその製品分野に強い関心があるだけではなく、彼ら自身、自己表現への欲求が極めて高いという特性があるのではないでしょうか。この傾向は、サイトで扱われている製品の「ユニーク度」が高かったり、「表現系」の製品であるほど強くなっているように見受けられます。ここで私が言う「ユニーク度」の高い商品というのは、その性能よりも外観、デザインが付加価値を増幅させているもの・・・たとえていうならオーディオ、家具、車、バイク、服もそうでしょうし、万年筆やパソコン周辺機器など。それを選ぶことによって、「私はこういう人物です」というステートメントになるような、自己表現を助けるアイテムを表します。「表現系」の商品とは、書籍は当然のことながら音楽、演劇、ダンス、絵画など、いわゆるアート系に分類されるすべてのモノ、コトです。
こうしたものについて一般ユーザーが語る時、「評者」としての顔が「ユーザー」としての顔よりも色濃く出て、あたかもその分野における「権威者」であるかのような語り口になっていることが多いように感じるのは、私の思いすごしでしょうか? これは、今話題のブログなどにも当てはまるかも知れませんが、誰もが容易に情報を発信できるようになった時代であればこそ、果たしてこれらのブログやコメントが、実際、どれほど読まれているのかどうか。あるいは、「ユーザーのコメント」が本当に信頼するに足る情報といえるのかどうか・・・
金さんはどのようにお考えですか?
0 Comments:
Post a Comment
<< Home